fly bye



 姫君は窓辺に佇み、遠く、山の稜線を見つめている。
 茶器の用意をしながら、女官はそっとため息を()らした。
 あの日からもう半年が過ぎようとしている。しかし、彼女の仕える女主人は、過去の悪夢から立ち直れていないのだ。
「姫様、お茶が入りました」
 そっと声をかける。薄紅の髪が揺れ、小作りな横顔がゆっくりとこちらを見る。
「ありがとう…」
 ひっそりと返る応えに、女官の心は痛む。
 もうすぐ現れるであろう、救いの主を心待ちにしながら、勤めて明るい声を出す。
「今日のケーキは、料理長自慢の逸品なのだそうですわ」
 以前ならば、紫水晶にも喩えられる瞳を輝かせたであろうに、今は薄い微笑みが浮かぶだけ。
 本来は、幸福の体現者であるはずの姫君に降りかかった、残酷な運命を思い、女官は心から、まだ頑是無(がんぜな)い姫君の不幸を哀しんだ。
 ディアーナ・エル・サークリッド。
 クラインの世継ぎにして、王家に残った唯一の直系。
 女官は、かつてこの国に輝いていた、世継ぎの君を思い浮かべた。
 鮮やかな空色の髪の皇太子、セイリオス・アル・サークリッド。
 何よりも妹姫に心を砕き、忙しい政務を縫って、二人でお茶を楽しむ様子は、横に控える自分の心すら温かくしてくれるほど、微笑ましいものだった。
 だが、もう二度と、そんな憩いの時は見ることはできない。
 半年前、皇太子はこの世を去った。
 ローゼンベルグの残党が放った刺客によって、暗殺されたのだ。
 詳しい事情など、一介の女官には判らない。すべては遥か上の人々によって処理された。彼女に判るのは、姫君がその日を境に自室に引篭もり、半ば病人のような生活を続けているという事だけである。
 華やかだった姫君の周りからは、(くし)の歯が抜けるごとくに、親しい者達の姿が消えていた。
 教育を受け持っていた気の良い文官は、帳簿改竄事件に巻き込まれ、官職を辞した。寡黙な騎士は、三ヶ月ほど前、ダリス戦争終結と共に、任官を蹴って退職していった。若鹿のような元気な騎士も、共に姿をくらませたと聞く。
 親友と呼んでいた二人の少女も、一人は恋人の療養について王都を出て行き、もう一人は行方も定かではない。
 皆もうこのお茶の席に訪れることはないのだ。
 今の姫君の心は、細い糸に支えられている。
 唯一彼女の(かたわら)にあり、愛し続けている人物によって…
 まだなのだろうか?女官はそっとドアを見た。
 常ならばすでに現れても良い時分である。
 しかし、彼も忙しい身なのだ。皇太子亡き後、彼の立場も微妙なものになっている。
 ダリス戦を勝利に導き、姫君との婚約が整ったとはいえ、今まで以上の働きを見せねばならないのだから。
 女官達の間には、嫌な噂も流れている。
 姫君のたっての願いを聞き入れたものの、国王は、元々この婚約を快くは思っていないらしいと…
 嫌なことにならなければ良いが…
 もしこれ以上悲しい事が続けば、姫君の心は耐えられないだろう。無理を言って、ぎりぎりまで仕えてはいたが、もう自分も傍にいられないのだ。せめて、少しでも以前の明るさを取り戻してほしい。
 自分の思いに耽っていた女官は、姫君に見詰められている事に気がつき、慌てて礼をとった。
「申し訳ございません。つい考え事を・・・御用は何でございましょう?」
 儚げな微笑のまま、姫君は頭を振る。
「いいえ、何も・・・来週が結婚式ですって?」
 その言葉に、女官は真っ赤になった。
「いえ・・・あの・・・」
「良いのよ、貴女が幸せになってくれて、嬉しいわ」
 ぼんやりと婚約者の事を考えていたと思われてしまったらしい。
 だが、姫の事を心配していたのです、と言えば、逆に姫君に辛い思いをさせるに違いない。 
 善良な女官は、赤くなったまま俯いた。
 
 救いの主が、密やかなノックの音で、来訪を告げる。
 ほっとしてドアに駆け寄り、そっと押し開く。
 大ぶりの花束が目に飛び込んできた。
「よ」
 花束の向こうから、何時もの如く人好きのする笑みを浮かべて、気さくな声が(よこ)される。
「シオン様。姫様がお待ちでいらっしゃいますわ」
「そっか。んじゃ、お邪魔するぜ」
 断りを告げ、部屋に入ろうとした筆頭魔導士は、すれ違いざま女官にそっと尋ねた。
「姫さんの様子は?」
 女官は首を振り、代わりの無い事を教える。
 魔導士は小さく溜め息を吐く。だが常の飄々(ひょうひょう)とした態度は崩れる事も無く、部屋の奥で待つ己が婚約者に微笑みかける。
「よ、姫さん。来たぜ」
 姫君は、最愛の恋人の来訪に、やっとその可憐な顔を(ほころ)ばせた。
 ああ、やはりこの方でなければ、姫君の心を支える事は出来ないのだと、女官は改めて実感する。
 二人がどれほど愛し合っているのか、この数ヶ月、側で見続けていた自分が、一番良く知っている。
 シオン・カイナス。
 クライン王宮筆頭魔導士。
 皇太子の腹心にして、親友であった男。皇太子を護りきれなかった失点を、ダリス戦役をたった三ヶ月で勝利に導くことで取り戻し、姫君との婚約を取り付けた切れ者。
 名門カイナス家の三男でありながら、その砕けた人柄が、国王や元老院に反感をもたれている人物。
 それでも、姫君との睦まじさは王宮で知らぬ者は無く、女官もまた、常に目のやり場に困るほどである。
「大きな花束ですのね、シオン」
 大ぶりでありながら、センス良くまとまった花束に、姫君が目を細める。
 しかし、魔導士は小さく肩を(すく)めた。
「あ〜悪り、姫さん。実はこれ、姫さんにじゃねぇんだ」
 首を傾げる姫君に、すまなそうに片手を上げると、彼はくるりと向きを変え、女官に花を差し出した。
「お前さん、今日限りで暇乞(いとまご)いだってな、んで、輿入れするんだって?おめでとう。これはお祝いだぜ」
 仰天する女官の手に、ぽんと花束が渡される。
「あ…ありがとうございます…」
 思いがけない祝福に、女官はぎくしゃくと礼を返した。
 そしておずおずと女主人を見る。姫君は穏やかな微笑を浮かべていた。
「良かったですわね…」
「は…はい」
 大きな花束を抱えて、女官はそっと涙ぐんだ。
 不幸の重なりの中で、それでも自分の事まで心を砕いてくれる二人の好意が嬉しかった。
 同時に、こんな不安定な状況の姫君を、一人残して去る事が、心苦しくもある。
 そんな彼女の心情を見透かしてか、魔導士が優しい笑みを浮かべた。
「そうそう。うんと幸せになるんだぜ、俺と姫さんみたいに…」
 何時の間にか姫君の背後に回り、そっと抱きしめる。たちまち姫君の頬が染まった。
「シオン、嫌ですわ、離して下さいませ」
 はにかんで俯く姫君の髪に、そっとキスを一つ落として、魔導士は、同じように赤くなっている女官に視線を流す。
 端正な顔に、悪戯な笑みを浮かべ、片目を瞑って合図を送る。
 女官ははたと気がついて、再び慌てて退室の礼を()った。
「で…では、私は控えの間に下がらさせていただきます。御用の旨には、お呼びくださいませ」
 花束を抱え、深々と礼をする女官に、姫君は鷹揚(おうよう)に頷く。
「ええ、いつもありがとうですわ」
「じゃあな」
「はい。花をありがとうございます、シオン様」
 もう一度礼を述べ、女官は姫君の部屋を辞した。
 扉を閉めかけた時、魔導士がそっと姫君の唇を奪う姿が見え、大慌てで、それでも非礼にならないように閉じる。
 控えの間に下がりながら、女官は、二人の幸せを心から祈っていた。

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